梅雨も明け、陽射しが一段と鋭さを増してきた頃…
京の町は何事もなかったかの様に、いつもと変わらない時を刻んでいる。
変わった事といえば……
河原町三条の池田屋と四条河原町の枡屋が、
主を失い看板が傾き、廃屋と化した事ぐらいであろう。
池田屋事件は、尊壌志士に多大な被害を与えたものの、
京の民の生活とはほぼ無縁の出来事であった。
あの事件から、もうすぐ一月が経とうとしていた。
島原の一角に位置する花柳館という道場に、一人の新選組隊士が来訪していた。
池田屋事件の際、体調を崩して出陣出来なかった総長山南敬助である。
まだ本来の体調とは言えないが、置き上がり外出できる程には回復していた。
壬生に定住する様になってから、山南はこの道場の宗家、
庵と交流があり、度々道場に足を運んでいた。
「ご足労かけてすまないな山南さん。」
「いや、気にしなくていいよ。それより用件というのは……?」
「ある人物を、新選組の屯所まで連れていって欲しいのだが…」
依頼の内容と、口篭もる庵の様子に、山南は違和感を覚えた。
普通の客人ならば、誰に断る必要もなく、屯所を訪れればいいだけの事である。
それを敢えて山南に連れていって欲しいというのだ。
「私が同行しなければ屯所に来れない立場の人間…ということか。一体何者なのかな?」
庵は咥えていた煙管を外し、ふぅっと大きく息を吐いた。
「流石は山南さん、鋭い所を突いてくるな…。」
頼む以上隠し事は出来ない。
意を決して山南を見据えると、庵は口を開いた。
「長州の人間だ。池田屋の事件があったばかりで、長州というだけで、
新選組には近寄る事も出来ないだろう?だから同行して貰わなければならないのだ。」
「……で、その人は我が隊に何の用があるんだい?」
「実は我々がその人から人探しを頼まれていてね。情報を集めていったら、
探していたのが何と、そちらの女隊士さんだった…というワケだ。」
「…………
君に!?」
局長ではなく、
に会いたいという意図が掴めず、山南は身構えた。
私怨ならば、連れて行く訳にはいかない上に、今後も警戒が必要になる。
山南の意を察したのか、庵は苦笑しながら言葉を加えた。
「何も決闘を申し込もうというのではない。届けたい物があるそうだ。」
「……届け物か。それならば引き受けるとしよう。」
「実はその人はこの下の部屋で待っているのだ。これから連れて行っては貰えまいか。」
こうして山南は、ある長州の要人を前川邸まで案内する事となった。
一方前川邸では、新しい隊士を募集すべく、屯所内が慌ただしくなっていた。
隊士が池田屋事件で受けた傷も回復を見せ、俄かに屯所が活気付いている。
そんな中、身体には傷が無いものの、
だけは
屯所の活気と反し、心虚ろな状態が続いていた。
池田屋で彼女が失ったものはあまりにも大きかった。
其れ故、時が経てども、心に刻みこまれた消失感は癒える事がなかった。
偶然にも知り合い、日本の行く据を語り合い、一度は同じ道を夢見た男が、
新選組とは立場の反する長州藩士であり、不幸にも池田屋の戦闘で敵として見え、
二度と逢えない場所へ逝ってしまった。
吉田稔麿との出会いが、
の心に影を落としている。
その事情を、近藤を始め、沖田、藤堂、永倉は既知であった為、
事件の事に関しては
の前では一切口にせず、そっと見守る事しか出来なかった。
花柳館を発ってから四半刻弱で、山南達は前川邸に到着した。
万一騒動になる事を懸念し、平隊士達には客人は花柳館の門人…と伝え、
来客を門前で待たせ、
との面会を許可してもらうべく局長の近藤に取り次ぎに向かった。
「長州藩の人間が何の用だろうねぇ。」
来客の身元を明かした瞬間、近藤の表情が一瞬曇った。
「実は
君と縁のある人から預かっている物を届けたいのだとか。」
「だったら何も一緒に来なくとも、物だけ渡しゃあいいんじゃないの?」
「それが、池田屋事件に関して訳有りなんだ。だから私も同行する事を引き受けたんだが…。」
山南は客人が花柳館に依頼した内容を説明し、思い当たる節の有る近藤は首を縦に振った。
「どうやら会って貰った方が、
君が元気になりそうだねぇ。」
程なく
は近藤の部屋に呼ばれ、山南の連れて来た長州藩士と対峙した。
「初めまして。私は長州藩留守居役乃美織江と申します。」
長州という響きに
の表情が強張った。
「本日はこれを貴女にお見せしたく、無理を言って会わせて頂いたのです。」
そう言うと、乃美は持って来た包みから何かを取り出すと、
の前にそっと差し出した。
「
さんはこれに見覚えがありますか?」
置かれたのは、空の様に鮮やかな青地に、金や朱色の糸で唐獅子模様が施された懐紙であった。
「これは……吉田さんの…!」
「やはりご存知でしたか。」
懐紙を目にした
は、今にも溢れ出しそうな涙をぐっと堪え、恐る恐る懐紙に手を伸ばした。
あの日は、この懐紙と同じ位空は青く、皐月とは思えない程暑かった。
出会ってからそれまで、吉田が忙しい日々を送っていた事もあり、
会うといっても洛中、とりわけ鴨川の周辺が多かった。
それが、その日は吉田も別段用はなく、 も非番であったので、
涼みがてら桂川まで足を伸ばそうという事になった。
道中他愛もない話をしながら、川沿いを北へと上っていく。
途中、休憩も兼ねて茶屋に立ち寄った。
勘定は自分が持つ…と、吉田が財布を取り出そうと懐に手を入れると、
財布と一緒に青い本のような物が出てきて、地面にぱたりと落ちた。
「関口さん、何か落ちましたよ。」
はそれを拾い、その美しい色合いと細工に目を奪われた。
「少々妬けますね。」
吉田の冗談めいた声に、
は意識を呼び戻され、慌てて視線を吉田に戻した。
目が合った吉田は、意味ありげに笑みを浮かべた。
「えっと……あの…?」
「一瞬とはいえ、貴女の心を引きつけ、視界を独占したのですから、妬かずにいられないでしょう?」
「懐紙にですか!?」
「ええ。」
二人は顔を見合わせると、互いに吹き出し鈴のような声を上げて笑いあった。
「気に入りましたか?」
「はい。こんな素敵な懐紙、今までに見た事がなかったものですから…。」
落とした際懐紙に付いた土埃を払い、
はそれを吉田に差し出した。
「この色、とても関口さんらしいと思います。」
「………私らしい?」
珍しいことを言うものだ、と吉田は不思議そうに桜庭を見つめた。
「空の様に広くて、澄んでいて、その…上手く言えないんですけど
関口さんの心の色を表しているようで…」
そう言いながら徐々に頬を朱に染めた
は、小声になり俯いてしまった。
何と可愛いのだろう。
普段は衝動で動く事のない吉田が、その時ばかりは考えるより先に思わず身体が反応した。
懐紙を差し出した
の手に、そっと自分の手を重ねた。
「せ……関口さん!?」
女慣れした同志達ならば、そのまま引き寄せ、胸に閉じ込めてしまうのであろう。
だが吉田は、
が動揺し声を上げたので、そこで我に返り踏み止まった。
そのまま手は離す事無く、
を見つめ、逸る気持ちを抑えながら口を開いた。
「これを差し上げたいのは山々なのですが、これは私が奉公していた頃の
恩人に賜った物なので、差し上げる訳には行かないのです。
ですが同じ物を取り寄せる事は出来ますので、後日改めて贈らせて下さい。」
物欲しくて懐紙を見つめていた訳ではない
は、慌てて頭を振った。
「そんな!頂く訳には行きません。気にしないで下さい。」
「いえ、贈らせて下さい。貴女はこの懐紙を私の心の様だと言った。
ならばそれを是非貴女に持っていて貰いたいと思うのです。我ながら身勝手とは思うのですが…。」
私の替りに貴女の傍に……
その言葉は飲み込んだ。
だが言わずとも、触れた手からその思いが伝わってくる様で、
は吉田から目を逸らせなかった。
胸打つ鼓動が早過ぎて、この時店の主人が勘定を受け取りに来なければ、
心の臓が口から飛び出てきたのではないかと思う程だった。
勘定を払い終えた吉田は、柔らかく微笑むと に手を差し伸べ、
桂川に着くまで二人は手を取り合いながら歩いた。
あの時は、その気持ちが何なのか分からなかった。
だが、今ならはっきりと分かる。
あの日既に互いを慕う心が芽生えていた。
そして、その心こそ恋心であったということを。
それを が認識したのは、皮肉にも池田屋事件で
逃走する吉田と会った、永遠の別れの瞬間であった。
涙が
の頬を伝い、雫となって懐紙に落ちた。
「吉田君が最後まで所持していた懐紙は、遺品として国許の御両親に
送ってしまったのですが、その後にこれが藩邸に届いたので、ずっと贈り主を探していたのですよ。」
乃美や桂は吉田に想い人が出来た事を聞いてはいるものの、
見たことがない為、何処の誰かは分からない。
唯一
の顔を見たことのある杉山は、吉田の後を追って今はこの世に居ない。
「其れ故、貴女の元に辿り着くまで時間がかかってしまいました。」
申し訳ないと頭を下げ謝ると、乃美は付け加えた。
「貴女に届ける事が出来て良かった。吉田君も本懐を遂げられた事でしょう。」
これが、池田屋から逃げ延びてきた吉田を助けてやれなかった事と、
目に前に居る彼女から永遠に吉田を奪ってしまった事への、せめてもの償いだと。
乃美は自分の使命を果たすと、深々と頭を下げ藩邸へと戻っていった。
もう吉田は戻らないのだとしても…
こうして懐紙を手にした事で、失った物が少しだけ戻ってきたような気がする。
それを見つめていると、不思議にも吉田が勇気付けてくれているように思えるのだ。
「やっぱりこの色は吉田さんの心のようです。」
涙を拭うと、 はこの懐紙と幸せだった思い出を胸に抱いて、
これからも強く生きていこうと、澄み切った空を見上げて誓うのだった。
あとがき
「藩」を書き終えた時点で、心行くまで池田屋事件を書いたので
自分の中では吉田×桜庭も完結しており、これ以上書く事はないだろう・・・
などと思っていたのですが。
あら不思議(苦笑)。
某展示会にて頒布されていた資料を、長州にて千鳥さんに購入してきて頂き、
栄太の懐紙の写真を見た時に、「これは…!」と話が浮かんだのです。
多分この遺品そのものは家族思いの栄太なら、やはり家族の元へ送るべきだと。
だったら鈴花ちゃんとお揃いで持っていてもいいかもしれない、と思い
このようなお話になりました。
当初は乃美先生お一人で屯所に来てもらおうと思ったのですが、
時期が時期だけに長州藩士は新選組とは犬猿の仲であること、
更には花柳剣士伝をプレイした事により、”依頼”という幅ができ
相反する立場の人間でも会う事が可能になった事などから、序盤が随分長くなってしまいました。
回想という形ではありますが、こうして再び吉鈴のお話を書く事ができ嬉しかったです。